平間の渡し ~ 諏訪の一本松
- 1.地名の由来「北谷町」
- 2.地名の由来「市ノ坪」
- 3.地名の由来「小杉」
- 4.小杉十字路
- 5.宮内の薬師堂への石標
- 6.地名の由来「宮内」
- 7.宮内の道標羽黒講
- 8.地名の由来「北見方」
- 9.北見方の正福寺
- 10.北見方の白髭神社
- 11.諏訪の一本松跡
- 12.寺子屋だった宮内の髙願寺
- 13.北見方の石塔群
話のいどころ
それぞれの話
1.地名の由来「北谷町」
読み方・・きたやちょう
江戸時代、上平間村の北の方に「北村」という場所があって、その名前がそのまま「北谷町」になった、という説があります。
《引用文献》(編)川崎市市民局市民相談部広報課,1978,川崎市,『ふるさと一町一話(下)』,p13
2.地名の由来「市ノ坪」
読み方・・いちのつぼ
最初の呼び名の「一ノ坪」が変化したものらしい。土地の広さの「坪」に関係しているようです。
《引用文献》(編)日本地名研究所,2004,川崎市,『川崎地名辞典・上』,p211
3.地名の由来「小杉」
読み方・・こすぎ
解説A
こすぎの「すぎ」という言葉は、地名用語語源辞典によると、つぎのように記されています。
「すぎ」・・砂礫地 されきち
《引用文献》(編)楠原佑介 溝手理太郎,1983,東京堂出版,『地名用語語源辞典』,p319
解説B
また別の辞典には、「小杉」のことがつぎのようにありました。
かつての村名がそのまま、町名として残っているところです。字堤外(ていがい)といわれたように多摩川の旧堤防と新堤防にはさまれた地域です。
宝暦の村絵図を見ると、当時、このあたりが多摩川の流路となっていたことがよくわかります。
《引用文献》(編)日本地名研究所,1991,川崎市,『川崎の町名』,p121
結論
以上のことから、古い時代、この地は多摩川の岸辺の荒れた砂地だったということが、想像できます。
今は大きなマンションが立ち並ぶ住宅地になりました。
4.小杉十字路
この十字路の真ん中の緑地に、大きな案内が建っています。
今は車の往来が激しいですけど、明治時代は大勢の人が行き交う繁華街でした。
明治30年以降、府中街道と交差する所となった小杉十字路付近は、料理屋、旅館、劇場、人力車屋、床屋、医院、郵便局などが集まり、このあたりの人々が「ロンドン・パリ」と呼んだほどの活気を呈したようです。
また明治33年には「鉄鉱泉」が開業しています。東京から仕入れた原液を使った湯治用の風呂ですが、よく効くというので付近の村々や、東京、埼玉からもお客が来たそうです。
5.宮内の薬師堂への石標
この案内によると、ここからお堂までがお寺への参道です。
病を治すありがたい仏様でした。
6.地名の由来「宮内」
読み方・・みやうち
いくつかある由来のひとつは、春日神社の内にある町なので「宮内」という名前になった、ということです。
その春日神社はすぐ近くです。
《引用文献》(編)川崎市市民局市民相談部広報課,1978,川崎市,『ふるさと一町一話(下)』,p19
7.宮内の道標羽黒講
道標羽黒講の読み方は、みちしるべはぐろこう、です。
道標の脇にある案内によると、山形県の出羽三山を信仰する羽黒講が宮内にもあったということです。
この路地の先にある東樹院に羽黒講の供養塔があって、この道標は東樹院への案内、とありました。
遠い山形県の信仰を、だれが宮内村へ伝えたのでしょうか。
8.地名の由来「北見方」
読み方・・きたみがた
ひとつの話としては、東京の喜多見にいた人たちがここに移り住んだので、この場所を「きたみ方」と呼んだ、という説があります。
《引用文献》(編)川崎市市民局市民相談部広報課,1978,川崎市,『ふるさと一町一話(下)』,p21
9.北見方の正福寺
昔の筏乗りたちからの聞き書きには、このお寺の名前が出てきます。
10.北見方の白髭神社
この神社も筏乗りからの聞き書きに出てきます。
境内は整理されて、氏子さんたちの手入れがよく入っているようでした。
11.諏訪の一本松跡
ここにある案内板の説明によると、今から400年前のお話です。
当時、この松の高さは25mもあったそうで、多摩川を下る筏からもよく見えていたと、書かれてます。
そして商店会は「松栄会」という名前です。
一本松を称えて、商店会の名前にしたようです。
一本松は、たいそう町内の人たちに親しまれていたことがうかがえます。
12.寺子屋だった宮内の髙願寺
ここの説明によると、江戸時代中期に寺子屋として始まり、明治5年に宮内学舎になったそうです。
明治5年の始まりならば、この道を歩いていた筏乗りたちも、見ていたことでしょう。
13.北見方の石塔群
次は、並んでいる石塔の種類名です。
これだけいろいろな石塔が並んでいる場所は、他にはないでしょう。
次はここの説明からです。
この場所は江戸時代八王子と東海道川崎に通じる三叉路で、
春先には村人がここに集まり、稲田をうるおす水を願い、
伊勢原の大山参りに出かけました。
道標
寛政十一巳未年庚申 講中
西 八をうし道
左りのミち
右 かわさき道
そして三叉路から見た風景です。
江戸時代には、ここから大山詣でが始まったのです。