- 多摩川で筏流しが盛んになった理由
- 多摩川は筏流しに向いていたのか
- 多摩川を流れた筏の姿・数・木材の量
- 多摩川にあった「渡船場」
- 多摩川にあった「河岸」
- 多摩川の筏乗り・その人数と出身の村
- 筏乗りは、帰り道で飲んだり食べたり
- 多摩川は大きく蛇行していた
- 盛土道と土手道の姿
- 土地の呼び名の由来
- 多摩で作られた炭
- 多摩川と崖線
- 古い時代の府中から品川までの道
- 江戸時代の神主日記から大國魂神社「お浜降りの道」を探る
多摩川で筏流しが盛んになった理由
江戸の火事と多摩の木材
江戸の町は大きな火事が多かった
多摩川は筏流しに向いていたのか
多摩川の急傾斜は、筏流しに向いていた
多摩川の勾配を世界の川と比較する
多摩川を流れた筏の姿・数・木材の量
筏の種類・多摩川を流れた筏の数・木材の量
江戸時代と明治時代の資料から探る
多摩川にあった「渡船場」
渡し舟の船頭小屋
川崎市「日本民家園」に保存されている実物です
時代と共に移動した「矢野口の渡船場」
稲城市にあった「矢野口の渡船場」の移り変わりを、古い地図で比較します
多摩川にあった「河岸」
菜種を積んだ船が出航した「油屋河岸」の場所を探る
川崎市幸区古市場の遊歩道は古い用水の跡で、そこには船着き場がありました
登戸にあった「石屋河岸」を探す
石は、海から多摩川をさかのぼって、川崎市多摩区の登戸まで運ばれました
野毛にあった「炭河岸」を探す
奥多摩で作った炭は筏の上に載せて、世田谷区の野毛で降ろしていました
多摩川の筏乗り・その人数と出身の村
明治20年・筏乗りの人数と出身の村
196名の筏乗りたちが帰る村を古い地図で見ます
筏乗りの村と奥多摩の風景
奥多摩の四つの村を、立体地図で見ます
筏乗りは、帰り道で飲んだり食べたり
狛江の造り酒屋「かくみせ」
品川道の四角にある店で、筏乗りちは一杯やりました
喜多見の知行院前はお店がいろいろ
筏乗りたちが歩いた世田谷区喜多見の知行院前は繁華街でした
お酒の店『さかや』を訪ねる
筏乗りたちが立ち寄ったお酒の店が、世田谷区喜多見にありました
茶店の「おかつみせ」で、ひと休み
六郷橋から歩きだして最初の休憩場所は大田区下丸子の茶店でした
多摩川は大きく蛇行していた
多摩川が蛇行した旧流路を資料で見る
「暴れ川」と言われたことがわかります
盛土道と土手道の姿
絵図に見る盛土道、土手道の姿
当サイトの地図によく出てくる「盛土道」を江戸時代の絵図で見る
土地の呼び名の由来
高津区にあった長崎堤防の名前の由来
北見方を歩いた筏乗りたちが見た堤防は、古い地図にありました
多摩で作られた炭
〈資料で探る〉江戸の町で使われた多摩炭
多摩で作られた炭は江戸の町で好評でした
多摩川と崖線
国分寺崖線の高低差を探る
品川までの道筋に、国分寺崖線はキーワード
立川崖線を探る・制作中
古い時代の府中から品川までの道
品川区の広報誌で見る 府中から品川までの道
広報「しながわ」には話のタネがいっぱいありました
江戸時代の神主日記から大國魂神社「お浜降りの道」を探る
一回目の探究
古地図で探る 府中から品川までの道 お浜降りの道を推測する
「お浜降り」という大國魂神社の神事ための道を探ります
二回目の探究
滝坂道を使って、江戸時代中期の「お浜降り」の道を推測する
「六所宮神主日記」の内容を、そのまま明治時代の地図に描きました
滝坂の傾斜具合を調べる
滝坂道のなかでも急坂の「滝坂」の勾配を調べる
滝坂道を使った「お浜降り」の道を立体地図で見ると疑問が浮かぶ
道の高低差がわかる立体地図で検証します
三回目の探究
二つの神主日記を使って、世田谷にあった馬引沢村を通る「お浜降り」の道を探る
別の日記から新しい道筋がわかった
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