多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

左岸の筏道で見つけた話

大田区

 

話のいどころ

 

それぞれの話

1.羽田の筏宿(いかだやど)

かつて、このあたりは「羽田猟師町」(はねだりょうしまち)と呼ばれていました。

文字にすると「漁師」ではなくて「猟師」と書きます。

江戸時代には「猟師」と表記することが多かったようで、羽田の他にも品川猟師町、深川猟師町などもありました。

そしてこの近くには、二軒の筏宿がありました。

多摩川には「筏宿」(いかだやど)と呼ばれた家があり、「筏宿」には二つの業態がありました。

  • 一つは、筏乗りたちを宿泊させるだけの宿です。
  • もう一つは、筏乗りが運んできた筏の材木の確認と証明書の発行が本業でした。

 

つぎの引用は、筏の証明書に相当する「手板」(ていた)を発行していた筏宿の仕事について述べてあります。

筏宿の仕事のなかで最も重要だったのは、手板をこしらえることで、それは、石州半紙を縦に二つ折りにし、筏師の極印、筏の枚数、材木の銘柄、寸面、員数を書き込み、それらに間違いないという筏宿の極印をおした証明書のようなもので、筏師たちはこの手板によって売買交渉をすすめ、材木問屋の方もそれを全面的に信用して、現物を見なくても商取引を成立させ、手板がなければ相手にしなかったといわれるほど権威のあるものでした。

《引用文献》平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p12-13

そして羽田猟師町の筏宿は「手板」を発行した筏宿でした。

 

2.羽田の渡し場への分かれ道

参考にした資料では、上の絵の右側の新しい道を筏道として選んでいます。

そして左側の多摩川寄りの古い道を行けば、羽田の渡し場まではすぐ着きます。

当時、筏を届けるところは、羽田の筏宿と六郷の筏宿でした。

羽田の筏宿に筏を届けたものの中には、そのまま川崎側へ渡ったものもいたそうで、そのときに一番近い渡し場は羽田の渡し場です。

羽田の渡し場へは、左側の古い道を行くことになります。

今ここに立って羽田の渡し場の方角を見ると、古い道には、レンガの防潮堤が長く続いていました。

 

3.羽田の長いレンガ堤防

細い道に合わせて、レンガの防潮堤は続いていました。

よく見ると、短いレンガと長いレンガが交互に重なっています。

このレンガの積み方はイギリス積みです。

イギリス積みのレンガは、横浜にある古い建物でも見ることができます。

横浜で見るレンガ壁もいいですけど、ここで見るレンガ積みの防潮堤は、風景に溶け込んでいるようでした。

 

4.羽田の渡し跡

多摩川のあちこちには、いろいろな渡し場の碑がありますけど、記念碑としては一番大きいようです。

記念碑の向こうに見えるのは大師橋です。

当時、筏を届けた筏乗りたちは給金を懐に入れて、ここから川崎宿へ渡って行ったのです。

 

5.六郷神社と八幡塚(はちまんづか)

六郷神社の広い境内の奥の一角に、小さな森のような場所があります。

ここが八幡塚で、八幡塚村の由来になったところです。

では、神社の鳥居下にあった「六郷神社由緒」に書かれてあった一文を紹介します。

八幡塚あるいは神輿塚と呼ばれ、竹林に囲まれていた様子がうかがえます。かつて六郷六か村の中心をなし、当社の宮本(みやもと)でもあった八幡塚村という村名は、この聖なる塚に由来します。

 

6.六郷最後の筏宿

この絵で見ると、陸橋の先は多摩川です。

昔、このあたりは荏原郡八幡塚村と言われました。

八幡塚村は、現在の東六郷三丁目と仲六郷四丁目が主だった範囲で、この近くには六郷で最後の筏宿がありました。

つぎは六郷と羽田のそれぞれの筏宿の数です。

安永三年(一七七四)のころ、六郷八幡塚村(註9)にあった筏宿は、茂兵衛、市郎兵衛、宇兵衛の三師で、羽田猟師町には勘兵衛、三次郎の二軒がありました。

《引用文献》平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p12

 

その後、羽田の筏宿が廃業になり、六郷にあった筏宿も最後の一つが大正時代に廃業しました。

次は引用文からです。

明治七年(一八七四)一月、いわゆる「左内橋」を架けた鈴木左内は、その十五代目に当たります。大正十五年(一九二六)、最後まで筏宿を経営しておりました。

《引用文献》平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p13

 

7.北野天神の「六郷の渡し跡」

六郷の渡し跡の案内は、この北野天神さんの境内にあります。

この天神さんは「止め天神さん」と呼ばれ、嫌なものをなんでも止めるというご利益があるそうです。

ところで、筏乗りだった男性の聞き書きによると、筏乗りたちはこの六郷橋を渡って川崎まで渡った、とありました。

六郷橋というと、明治7年に鈴木佐内によって作られた「佐内橋」が有名ですね。

それまで橋が無くて、やっとのことでできた「佐内橋」も、多摩川の大水で流されました。

その後作られた橋も、大水のたびに流されました。

ということは、つぎの橋ができるまでの間、筏乗りたちはこの六郷の渡しの舟で川崎へ行ったのです。

 

8.六郷橋の親柱に乗る小舟

六郷橋の親柱には、むかし使っていた古い舟のミチュアがあります。

毎日この橋を渡っている人のなかで、どれだけの人がこの小さな舟に気づいているでしょうか。

 

9.筏乗りは六郷橋を渡って川崎へ

仕事が終わった筏乗りたちは、六郷村から六郷橋を渡って、また六郷橋が無いころは渡し船で川崎側に渡っていました。

その様子は次のようです。

どうせ金を出して泊まるなら、ふつうの旅館の方が気楽でいいし、食い物もうまい、我儘もできるというわけで、みんな六郷橋を渡って川崎の町へ行っちまいました。

《引用文献1》平野順治著 大田区史編さん室編,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p15

 

また、川崎に泊まった筏乗りたちは、翌朝、その日のうちに多摩川の上流まで帰るために早朝の出発でした。

筏乗りたちの出発の様子は次のようです。

川崎には浅田屋など旅籠屋が四軒あり、六郷に着いた筏乗りは川崎まで行って泊まった。川崎に泊まった筏乗りは、翌朝の四時ごろに起きて宿を立ち、六郷橋を渡って多摩川左岸を歩いて帰った。

《引用文献2》角田益信,2000,稲田郷土史会,『あゆたか』,「多摩川の筏流し聞書」,第38号,p31

 

ところで、これらの資料によると、川崎に泊まった筏乗りは翌朝六郷橋を渡っています。

わざわざ多摩川を渡って左岸の道を選んでいるのです。

なぜなのでしょうか。

考えられる理由としては次のことがあります。

  1. 帰りの順路に旧甲州街道を歩いたので、旧甲州街道に出るのには多摩川左岸の道を行くのが早かったから。
  2. 多摩川右岸を歩くとしても、途中で左岸へ渡らなければならない。その際、旧甲州街道への順路は限られていたから。

この二つは「多摩川右岸の筏道」で再検討することにします。

 

10.東八幡神社の「矢口の渡し跡」

八幡神社(ひがしはちまんじんじゃ)の鳥居下にある石標が、矢口の渡し跡の碑です。

実際の渡し場を探しに多摩川の岸辺に出ました。

そこには上の絵のような案内板があり、草に覆われていました。

 

11.鎌倉道と筏道が出会うところ

上の絵の左が鎌倉道、右は筏道です。

ここは二つの古い道の合流点。

左の鎌倉道には、旗を立てた「頓兵衛地蔵」が見えてます。

 

12.西嶺町の嶺西向庚申塔

大田区発行の案内によると、ここ西嶺町(にしみねまち)には四カ所の庚申塔があるそうです。

こちらの庚申塔はその一つ。

庚申様の周りはきれいになっていて、ご近所さんの手入れがよく入っているようです。

ところで、ふつう道祖神さんは東を向いているのですけど、こちらの庚申様は西を向いていられます。

「嶺西向庚申塔」というお名前からも、とくべつな理由があるのでしょうか。

そして庚申塔の前の道を歩いた筏乗りたちも、ここで帰り道の安全をお願いしたのでしょう。

庚申様は、前の交差路を行く人を見守るようなお姿でした。
《引用文献》大田区歴史スポットマップ 嶺町・鵜の木編https://www.city.ota.tokyo.jp/seikatsu/manabu/hakubutsukan/bunkazai_kikousyu.files/mineunoki-chizu.pdf

 

13.とんべえ地蔵

鎌倉道のわきに、赤い前掛けを付けた「とんべえ地蔵」さんが立っています。

筏乗りたちは、ここでもお祈りをしました。

つぎの引用は元筏乗りからの聞き書きです。

 

話者:明治18年生まれ 青梅市沢井下文
調査:昭和40年12月5日

矢口の頓兵衛地蔵のところには、目通り七尺くらいの黒松が三本あり、その中の一本は頓兵衛が船をつないだというので川の方へ傾いていていた。
筏乗りは頓兵衛地蔵にお賽銭と線香を上げて川の安全を祈り、次太夫堀に沿って歩いて行った。

《引用文献》角田益信,2000,-,『稲田ニュース』,多摩川の筏流し聞書(四),第494号

 

 次 の ペ ー ジ 

「左岸の筏道で見つけた話」のそれぞれ

大田区

世田谷区

狛江市

調布市

府中市

 

右岸の筏道のページ

右岸筏道作成のための文献を探す