多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

筏道は筏乗りが歩いて帰った道

 

街角の案内は「多摩川の筏流し」

ここは川崎市多摩区役所近くのクルマが行き交う道路脇です。

観光地でもないこの場所にポツンと置かれている案内板がありました。

 

その案内板には古い写真が焼き付けてあります。

写真を撮影した年は不明ですが、説明のタイトルは「多摩川の筏流し」(たまがわのいかだながし)とありました。

 

筏流しとは

ここからは、車両を使った貨物輸送ができなかった頃の話です。

多摩川の上流で伐採した大きな材木は、何本も束に組んで筏(いかだ)にして多摩川を下っていました。

いくつかの資料を見ると、筏に乗った男性が、川の淵で材木を筏に組んでいる写真があります。

筏は多摩川の上流から数日かけて下って、河口まで運んでいました。

これを「筏流し」といいます。

 

筏流しをしていた時代

では筏流しをしていた時代はいつごろでしょうか。

資料を読むと、いくつかの説明があります。

 

筏流しが最も盛んだったのは幕末から明治30年ころ

ひとつの説明によると、多摩川の筏流しは江戸時代初期から始まって、最も盛んだったのは幕末から明治30時代頃までだったとあります*1

 

筏流しが終わるのは大正時代の末

では、筏流しはいつの時代まで続いたのでしょうか。

次は資料からの引用で、明治18年生まれの、元筏乗りだった男性からの聞書です。

この話のなかで、筏流しの終わりは大正時代の終わり頃とあります。

大正十二年の震災前までは、川崎から汽車に乗って品川、新宿を回って立川に出た。立川から青梅線に乗って帰るようになった。料金は自分持ちで新宿から御岳まで九十二銭した。昭和二年ごろ、氷川第二発電所ができるときに筏組合に補償金が十万円でた。その金を東京の京橋にある政友会の事務所へ受取りに行ったことがあった。昭和初期になると、自動車輸送と青梅線の貨車を利用するようになり、木材は産地で製材して東京の本場へ直接運ぶようになった。そのため、多摩川の筏流しは大正末で終わったが、その後、川沿いの材木屋からの依頼があり、筏は昭和七年ごろまで途中まで下ったという。

《引用文献》角田益信,2000,-,『稲田ニュース社』,多摩川の筏流し聞書(四),第494号,p-

 

筏流しができる時期は秋から翌年の春まで

そして筏流しができる時期は一年の中で決まっていたそうです。

資料では、毎年、秋の9月後半頃から翌年の初夏までとありました。*2

 

筏をあやつる男たち

上の写真のように、筏流しは男性の仕事です。

男たちは筏に乗り、舵取り用の長い竿を使って、筏がうまく流れるように操っていました。

筏流しのことについて書いてあるものには、筏に乗る人のことを「筏師」*3と表現していることがありますが、「筏師」とは材木業者のことで、いわゆる元締め、荷主です。

 

男たちの呼び名は「筏乗り」

では筏に乗る人を何と呼んでいたのでしょうか。

多摩川の上流部では筏に乗る人のことを「乗夫のりふ」「乗子のりこ」、多摩川河口の六郷では「上乗りさん」(うわのりさん)と呼んでいたようです*4

そこで当サイトでは、いくつかある言葉のなかから、いちばん分かりやすい「筏乗り」(いかだのり)という言葉を使います。

 

明治20年の筏乗りは196名

では、筏道を行く筏乗りは何人だったのでしょうか。

当時の筏乗りは、今でいうところの組合に登録しなければ仕事ができませんでした。

明治20年の記録、三田領筏師会所の「筏乗夫名簿」には196名と書かれていたそうです*5

またその筏乗りたちの出身の村は、現在の青梅市長淵から奥多摩町棚沢まで広がっています*6

そして鉄道が使えるようになるまでは、筏に乗るたびに、多摩川の河口の六郷から奥多摩まで歩いて帰ったのです。

 

帰り道が「筏道」

なんとか無事に多摩川の河口に到着して筏を届けた筏乗りたちは、こんどは多摩川の上流に向かって帰り道を急ぎました。

何人もの筏乗りたちが帰っていく姿を、多摩川沿いの村の人々は見ていたことでしょう。

そんな筏乗りたちが歩いて帰る道のことを、いつしか「筏道」と言うようになったのです。

 

今に残る筏道

大勢の筏乗りが歩いた筏道は、現在でも少し残っています。

世田谷区にある神社には、筏道と書かれた小さな石標が境内にありました*7

また、川崎市の中野島には「川崎に現存する唯一の筏道」*8という案内の小道があります。

 

筏道は多摩川の左岸と右岸

多摩川の河口の六郷村に筏を届けた筏乗りたちは、それぞれの家に帰ることになります。

筏乗りたちは数人の集団で帰りました*9

ある筏乗りたちは、世田谷、狛江、調布を通って府中までたどり着きました。

これは多摩川の左岸を使った帰り道です。

また、筏乗りのなかには六郷橋を渡った川崎から、平間、諏訪、登戸と歩いて、矢野口の渡し場から府中へ入ったものもいたそうです。

これは多摩川の右岸を使った帰り道です。

 

筏道はいくつもあった

筏乗りたちは多摩川の左岸と右岸の両方を使って帰りました。

当サイトでは左岸と右岸の両方の筏道について述べることにしますが、筏道に「これが正しい筏道だ」ということは、ありません。

江戸時代から大正時代の間、筏乗りたちが歩いた道は、多摩川の両側にいくつもあったのです。

では、いくつもあった理由を述べます。

 

いくつもあった理由1:道は整備されて変わっていく

道は、時代とともに整備され改良されてきました。

次の地図は、明治13~22年の大田区羽田の古い地図です。

筏乗りたちが歩いた時代でも新しい道が作られた、ということがわかる地図です。

当サイトの左岸筏道は資料から引用していますが、新しい道が筏道になっています。

当サイトの多摩川左岸の筏道の羽田は、(b)の道を使っています。

(b)の道ができる前、筏乗りたちは(c)の道を歩いたことでしょう。

 

いくつもあった理由2:多摩川の氾濫で川の形が変わった

多摩川はたびたび氾濫しました。

国土交通省関東地方整備局のサイト『あばれ多摩川発見紀行』*10を見ると多摩川が氾濫した記録の一覧があり、記事には「堤防決壊」「大水害」「氾濫」という言葉が並んでいます。

災害の記録数は、江戸時代21件、明治時代7件、大正時代6件でした。

そして、大きな洪水の後は川の形が変わりました。

多摩川は蛇行したのです。

 

いくつかの資料を見ると、多摩川の蛇行の記録*11があり、とくに多摩川下流域では川の形が大きく変わっていました*12

そして筏乗りだった男性の聞き書きを読むと、筏乗りたちは多摩川に沿って歩いた*13ということなので、川の氾濫の後の帰り道は、いままで歩いたことのない道を行ったのです。

当サイトの別ページには多摩川の蛇行跡「旧流路」について詳しく示しました。>>リンク

 

いくつもあった筏道のうち当サイトで扱う時代

何度も起きた多摩川の氾濫や、時代に合わせた新しい道ができたことで、筏乗りたちが歩く道もかわったのです。

江戸時代から大正時代にかけて、筏乗りたちが歩いた筏道はいくつもあったのですが、当サイトでそのすべてを扱うことはできません。

そこで、参考にした文献と、筏道の順路を作るための地図の時代設定から、当サイトで扱う時代を示します。

 

扱う時代は明治中期から大正時代

当サイトでは明治時代中期から大正時代の話を扱います。

資料にある話には、筏乗りだった男性の体験談もあります。

体験談は非常に貴重なものですが、一つ問題があります。

それは、話の内容の時代がはっきりしていないことです。

当サイトではできるだけ時代設定を明確にするつもりですが、いくつかの内容には、時代が不明確な話があるかもしれませんが、内容は事実の話です。

次に、その時代設定に使った資料を示します。

・左岸と右岸の筏道のための参考文献 >> リンク

・右岸の筏道を作成するための明治時代の地図 >> リンク

 

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*1:平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p10

*2:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p10

*3:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p10

*4:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p10

*5:多摩川編集委員会,2001,新多摩川編集委員会,『新多摩川誌・本編・中』,筏師側の対応,ー,p723

*6:多摩川編集委員会,2001,新多摩川編集委員会,『新多摩川誌・本編・中』,筏師側の対応,ー,p723

*7:左岸の筏道で見つけた話 世田谷区

*8:右岸筏道で見つけた話 登戸の渡し

*9:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p19

*10:あばれ多摩川発見紀行

*11:小塚光治,1980,多摩史談会,『川崎史話(中巻)』,p244

*12:編集:新多摩川編集委員会,2001,発行:財)河川環境管理財団,『新多摩川誌/本編(上)』,多摩川の旧水路,ー,p191

*13:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p18