多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

筏道は筏乗りが歩いて帰った道

 

街角の案内は「多摩川の筏流し」

ここは川崎市多摩区役所近くのクルマが行き交う道路脇です。

観光地でもないこの場所にポツンと置かれている案内板がありました。

 

その案内板には古い写真が焼き付けてあります。

写真を撮影した年は不明ですが、説明のタイトルは「多摩川の筏流し」(たまがわのいかだながし)とありました。

 

筏流しとは

ここからの話しは、自動車を使った貨物輸送がまだできなかった頃の、古い時代の話です。

その当時、多摩川の上流で伐採した大きな木材は、何本も束に組んで筏(いかだ)にして多摩川を下っていました。

筏は多摩川の上流から数日かけて下って、河口まで運んでいました。

これを「筏流し」といいます。

 

筏流しをしていた時代

始まりは中世のころ

では、筏流しをしていた時代はいつごろでしょうか。

時代としては、中世のころの資料があります。

資料によると、浅草・浅草寺観音堂の再建に、現在の青梅市辺りから木材を運んだ、ということです。

中世において河川交通の実態を詳らかにする史料は乏しい。その中にあって、「浅草寺縁起」からは、歴史を遡る多摩川の様相を窺うことができる。仁安三年(一一六八)に浅草寺の僧・用舜が観音堂の再建に際して、杣の山から材木を切り出し、多摩川河口より大井浦に運搬する逸話が記されている。杣は、中世の杣保郷、現在の青梅市一帯の山麓地域を呼んだとされる。多摩川の流れは、府中を経由して内海に注いで大井に至るが、縁起には、「同五月朔日壬辰柱二本船につけ多波川口より大井の浦に来る」との記述がある。
《引用文献》品川区立品川歴史館,2008,品川区立品川歴史館,『東京湾と品川 よみがえる中世の港町』,中世の多摩川と大井浦,-,p19

古い時代の資料ということで、この内容には運んだ量が示されていません。

また、木を丸太のまま運んだのか、筏の形にしたのかも不明です。

運んだ量や運び方は不明ですが、中世のころから多摩川を使った木材の運搬があったということです。

 

江戸の町は建築用の木材が必要だった

多摩川を使った木材の輸送は中世の頃始まって、江戸時代に入ってから「筏流し」という形になりました。

現在の東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら)に伝わる古い民謡は、筏流しが盛んだったことを表現しています。

民謡の歌詞の中に “ お江戸が焼けて 山栄ゆ ” という言葉があるくらいです。

よく知られているように、江戸の町は一年中大きな火事がありました。

その復興のために木材が必要で、筏流しも盛んになりました。

江戸の町の大火事と木材については、下記の記事で細かく示しましたので読んでください。

記事・江戸の火事と多摩の木材 リンク先

 

筏流しが終わるのは大正時代の末

では、筏流しはいつの時代まで続いたのでしょうか。

次は資料からの引用で、明治18年生まれの、元筏乗りだった男性からの聞書です。

この話のなかで、筏流しの終わりは大正時代の終わり頃とあります。

これは、トラックと鉄道による木材の輸送が盛んになったためです。

大正十二年の震災前までは、川崎から汽車に乗って品川、新宿を回って立川に出た。立川から青梅線に乗って帰るようになった。料金は自分持ちで新宿から御岳まで九十二銭した。昭和二年ごろ、氷川第二発電所ができるときに筏組合に補償金が十万円でた。その金を東京の京橋にある政友会の事務所へ受取りに行ったことがあった。昭和初期になると、自動車輸送と青梅線の貨車を利用するようになり、木材は産地で製材して東京の本場へ直接運ぶようになった。そのため、多摩川の筏流しは大正末で終わったが、その後、川沿いの材木屋からの依頼があり、筏は昭和七年ごろまで途中まで下ったという。

《引用文献》角田益信,2000,-,『稲田ニュース社』,多摩川の筏流し聞書(四),第494号,p-

 

筏流しができる時期は秋から翌年の春まで

そして筏流しができる時期は一年の中で決まっていたそうです。

資料では、毎年、秋の9月後半頃から翌年の初夏までとありました。*1

これは、稲を作る田に水が必要になるころは、多摩川に堰(せき)を作るので、筏を流すことができないからです。

 

筏をあやつる男たち

先に示した、街角にある写真でわかるように、筏流しは男性の仕事です。

男たちは筏に乗り、舵取り用の長い竿を使って、筏がうまく流れるように操っていました。

筏流しのことについて書いてあるものには、筏に乗る人のことを「筏師」*2と表現していることがありますが、「筏師」とは材木業者のことで、いわゆる元締め、荷主を指しています。

 

男たちの呼び名は「筏乗り」

では筏に乗る人を何と呼んでいたのでしょうか。

多摩川の上流部では筏に乗る人のことを「乗夫のりふ」「乗子のりこ」、多摩川河口の六郷では「上乗りさん」(うわのりさん)と呼んでいたようです*3

そこで当サイトでは、いくつかある言葉のなかから、いちばん分かりやすい「筏乗り」(いかだのり)という言葉を使います。

 

明治20年の筏乗りは196名

では、筏道を行く筏乗りは何人だったのでしょうか。

当時の筏乗りは、今でいうところの組合に登録しなければ仕事ができませんでした。

明治20年の記録、三田領筏師会所の「筏乗夫名簿」には196名と書かれていたそうです*4

またその筏乗りたちの出身の村は、現在の青梅市長淵から奥多摩町棚沢まで広がっています*5

そして鉄道が使えるようになるまでは、筏に乗るたびに、多摩川の河口の六郷から奥多摩まで歩いて帰ったのです。

 

筏乗りの帰り道が「筏道」

なんとか無事に多摩川の河口に到着して筏を届けた筏乗りたちは、こんどは多摩川の上流に向かって帰り道を急ぎました。

何人もの筏乗りたちが帰っていく姿を、多摩川沿いの村の人々は見ていたことでしょう。

そんな筏乗りたちが歩いて帰る道のことを、いつしか「筏道」と言うようになったのです。

 

今に残る筏道

大勢の筏乗りが歩いた筏道は、現在でも少し残っています。

世田谷区にある神社には、筏道と書かれた小さな石標が境内にありました*6

また、川崎市の中野島には「川崎に現存する唯一の筏道」*7という案内の小道があります。

 

筏道は多摩川の左岸と右岸

多摩川の河口の六郷村に筏を届けた筏乗りたちは、その日は川崎の宿で一泊し、翌朝早くに宿を出て、調布か府中で一泊しました。その後はそれぞれの家まで歩きます。

ただ、いそがしいときは、川崎の宿を午前2時か3時に出発して、ぶっとおしで歩いて青梅の町で夕食をとって、8時か9時には家に着いたといいます。

河口の六郷から奥多摩の沢井まで、十六里(64km)の道を歩いたのです*8

 

筏乗りたちは数人の集団で帰りました*9

ある筏乗りたちは、世田谷、狛江、調布を通って府中までたどり着きました。

これは多摩川の左岸を使った帰り道です。

また、筏乗りのなかには六郷橋を渡った川崎から、平間、諏訪、登戸と歩いて、矢野口の渡し場から府中へ入ったものもいたそうです。

これは多摩川の右岸を使った帰り道です。

 

筏道はいくつもあった

筏乗りたちは多摩川の左岸と右岸の両方を使って帰りました。

当サイトでは左岸と右岸の両方の筏道について述べることにしますが、筏道に「これが正しい筏道だ」ということは、ありません。

江戸時代から大正時代の間、筏乗りたちが歩いた道は、多摩川の両側にいくつもあったのです。

では、いくつもあった理由を述べます。

 

いくつもあった理由1:道は整備されて変わっていく

道は、時代とともに整備され改良されてきました。

次の地図は、明治13~22年の大田区羽田の古い地図です。

筏乗りたちが歩いた時代でも新しい道が作られた、ということがわかる地図です。

当サイトの左岸筏道は資料から引用していますが、新しい道が筏道になっています。

当サイトの多摩川左岸の筏道の羽田は(b)の道を使っています。

(b)の道ができるまでは、筏乗りたちは(c)の道を歩いたことでしょう。

 

いくつもあった理由2:多摩川の氾濫で川の形が変わった

昔から、多摩川はたびたび氾濫しました。

国土交通省関東地方整備局のサイト『あばれ多摩川発見紀行』*10を見ると多摩川が氾濫した記録の一覧があり、記事には「堤防決壊」「大水害」「氾濫」という言葉が並んでいます。

その資料から、わたしの調べでは、災害の記録数は、江戸時代21件、明治時代7件、大正時代6件でした。

そして、大きな洪水の後は川の形が変わりました。

多摩川は蛇行したのです。

 

いくつかの資料を見ると、多摩川の蛇行の記録*11があり、とくに多摩川下流域では川の形が大きく変わっていました*12

そして筏乗りだった男性の聞き書きを読むと、筏乗りたちは多摩川に沿って歩いた*13ということなので、川の氾濫の後の帰り道は、いままで歩いたことのない道を行ったのです。

当サイトの別ページには多摩川の蛇行跡「旧流路」について詳しく示しました。

記事・多摩川が蛇行した旧流路を資料で見る リンク先

 

当サイトで扱う時代

何度も起きた多摩川の氾濫や、新しい道ができたことで、筏乗りたちが歩く道も変わりました。

江戸時代から大正時代にかけて、筏乗りたちが歩いた筏道はいくつもあったのですが、当サイトでそのすべてを扱うことはできません。

そこで、参考にした文献と、筏道の順路を作るための地図の時代設定から、当サイトで扱う時代を示します。

 

扱う時代は明治中期から大正時代

当サイトでは明治時代中期から大正時代の話を扱います。

この時代を選んだ理由です。

  • この時代の筏流しや筏乗りのことが、古老の話しとして図書館などにある。
  • この時代に筏乗りをしていた男性の体験談が、聞き書きの資料として残っている。

体験談は非常に貴重なものですが、一つ問題があります。

それは、話の内容の時代がはっきりしていないことです。

というのも、体験談の聞き手は「◯◯のことですが、明治何年にしましたか?」などとは聞きません。

話しは体験した内容が中心で、いつごろしたというのは、二の次です。

それでも、当サイトでは資料の時代をできるだけ明確にします。

次に、その時代設定に使った資料を示します。

・左岸と右岸の筏道のための参考文献   リンク先

・右岸の筏道を作成するための明治時代の地図  リンク先

 

次のページ >> 筏道は羽田から奥多摩まで

 

*1:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p10

*2:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p10

*3:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p10

*4:多摩川編集委員会,2001,新多摩川編集委員会,『新多摩川誌・本編・中』,筏師側の対応,ー,p723

*5:多摩川編集委員会,2001,新多摩川編集委員会,『新多摩川誌・本編・中』,筏師側の対応,ー,p723

*6:左岸の筏道で見つけた話 世田谷区

*7:右岸筏道で見つけた話 登戸の渡し

*8:平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p232

*9:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p19

*10:あばれ多摩川発見紀行

*11:小塚光治,1980,多摩史談会,『川崎史話(中巻)』,p244

*12:編集:新多摩川編集委員会,2001,発行:財)河川環境管理財団,『新多摩川誌/本編(上)』,多摩川の旧水路,ー,p191

*13:平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p18