多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

左岸の筏道で見つけた話 府中市

 

話のいどころ

 

それぞれの話

1.「鍋屋横丁」の石標

ここで写真を撮っていると、途切れること無くクルマが通り過ぎます。

府中市内でも交通量の多い交差点のようですね。

そして「鍋屋横丁」の石標は、信号の隅にありました。

では、「鍋屋横丁」の名前の由来を、石標に記されたまま載せます。

ところで「鍋屋横丁」という場所は、調布の国領にもあります。

それほど古くない昭和の時代でも、町内のあちこちに「横丁」という場所がありました。

鍋屋横丁(なべやよこちょう)の名は 旧甲州街道からこの道に入る角の家(佐藤家)の屋号 “ 鍋屋 ” に由来します。
同じ鍋屋の屋号のついた「鍋屋道」が北の方にあります。

 

2.「府中宿新宿入口」の石標

この碑は、小金井街道と書かれた案内板の下にありました。

普段なら見過ごすほどの、小さな石標です。

石には「府中宿新宿入口」と刻まれてあって、背面には「紺屋跡地」とありました。

ところで「府中宿新宿入口」の「新宿」は、しんしゅくと発音します。

この場所は、ここから府中駅の方角に続いていた、昔の「府中新宿」のはじまりの場所だったのです。

そういえば、この近くの公園の名前も「新宿公園」です。

「紺屋跡地」と記されたのも、府中駅からここまでのあいだに、染物屋さんの看板をいくつか見かけたことで納得しました。

 

3.品川街道との合流地点

正面のホテルの右の道は「品川街道」です。

明治のころ、旧甲州街道と出会うこの場所は、さぞや賑やかだったことでしょう。

明治時代の地図と現在の地図を見比べると、いくらかの変更はあるものの、明治時代の品川街道はクネクネ曲がる道でした。

 

4.そば屋「梅寿」跡

府中に入って大國魂神社の前まで来た筏乗りたちは、そばを食べて帰ったそうです。

その場所は、今では大きなビルになりました。

 

つぎは引用からです。

さて筏乗りたちは、調布の町で一番古いそば屋の中島屋や大国魂神社前の梅重庵に立ち寄り、そばを食べて腹ごしらえをすると、本宿のはずれで甲州街道を右手にそれ、谷保天神の森を目印にしながら、寂しい「原の道」を立川へと向かった。

《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p235

 

引用文には「梅重庵」とありますが、資料には「梅寿」とあります。

「梅寿」と書かれた資料の地図をイラストにしたので、次に示します。

 

5.HOTEL 松本屋

次は府中観光協会の記事からです。

HOTEL 松本屋 1725がある府中は、江戸から約7里半という立地から、江戸時代より甲州街道の宿場町として大変栄えた場所であります。

《引用元》府中観光協会ホームページ・HOTEL松本屋1725

 

府中観光協会の説明に、HOTEL松本屋の始まりは1725年とあります。

ところで、1720年から1723年までの間、毎年、江戸では大火事が続きました。

数年続いた大火事から江戸の町を元に戻すには、奥多摩の木材が多く使われました。

そのため、松本屋が始まったころの多摩川では、いつもの年よりも多くの筏を見ることができたはずです。

 

松本屋の前の道は旧甲州街道です。

六郷から歩いて来た筏乗りたちは、府中に入ると松本屋の前を行くことになります。

開業したばかりの松本屋を右に見て、筏乗りたちは帰りの道を急ぎました。

 

江戸の大火事についての記事は別ページにあります。
記事リンク先 >> 江戸の火事と多摩の木材

 

6.白糸台の庚申塔

この庚申塔の前の道は旧甲州街道で、古い時代のメインストリートでした。

道に向かって建っている庚申さんは、村の安全から病気の願掛けまで、なんでも引き受けてくれます。

筏乗りたちは手を合わせて、帰り道の安全をお願いしてから府中の町を目指したのでしょう。

 

 次 の ペ ー ジ 

「左岸の筏道で見つけた話」のそれぞれ

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