多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

引用文献から明治期の地図に右岸順路を描く

諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し

 

作成した順路図

青い線が作成した順路

 

順路図を描くための引用文とキーワード

引用文

それから二子の筏宿・亀屋に寄って一休みし、川沿いの道を選んで、宿河原堰のところから登戸の渡船場に着く。

《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p237

 

キーワード

・二子の筏宿亀屋

・川沿いの道を選んで

・宿河原堰

・登戸の渡船場

 

キーワードからの 問い・解答・根拠

問い1:「二子の筏宿亀屋」の場所はどこか

解答1:高津村の多摩川近く

根拠:大正時代の絵地図には「亀屋」が描かれている

次は、高津区大山街道ふるさと館」にある掲示品で、大正時代の二子の絵地図です。

 

絵地図を拡大すると「亀屋」の文字が確認できます。

「二子の亀屋」は、多摩川に近い位置にありました。

 

では、同じ場所を明治時代の地図で見ることにします。

大山街道と堤防の位置関係から、「二子の亀屋」の場所がわかります。

ここは引用文の「二子の筏宿・亀屋に寄って一休みし」の場所です。

 

問い2:「川沿いの道を選んで」とはどういう道か

解答2:多摩川の岸辺にある徒歩路を歩くこと

根拠:明治期の地図を見ると、岸辺には徒歩路が続いている

次の地図は、筏乗りが歩いた「二子の亀屋」から先のものです。

青色線の筏道は、地図上の徒歩道の上をなぞったものです。

筏乗りたちは、多摩川の川岸の細い道を歩きました。

 

問い3:宿河原堰はどこか

解答3:現在の宿河原堰と、ほぼ同じ場所

根拠:堰は用水の取り入れ口近くにある

まず、次の地図で現在の宿河原堰を確認します。

この地図の見方のポイントは、二ケ領用水の取入れ口の場所です。

 

次は明治時代の地図で、宿河原堰を確認します。

この時代、地図には堰の形がハッキリと示されていません。

ただ、現在の宿河原堰の位置から考察すると、明治時代でも二ケ領用水の取入れ口脇に堰があると考えられます。

 

問い4:登戸の渡船場の場所

解答4:現在の「登戸の渡し」の石標からは、少し離れている

根拠:多摩川の渡し場は、時代によって移動していることが多い

次の明治期の地図を見てください。

縦書きに「登戸渡」と確認できます。

 

そして現在の地図で、同じ範囲を見ることにします。

現在の「登戸の渡し石標」と「明治時代の登戸の渡し」とは、その場所が違います。

いくつかの資料を見ると、多摩川の渡し場は時代によって、また多摩川の氾濫によって移動しました。

 

現在では、この石標の場所が「登戸の渡し」ということになっています。

 

 次 の ペ ー ジ 

「明治期の地図に右岸順路を描く」のそれぞれ

六郷橋 ~ 平間

平間 ~ 諏訪の一本松

諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し

登戸の渡し ~ 稲田堤

稲田堤 ~ 矢野口の渡し

 

明治期の地図で描いた右岸順路を、現在の地図で歩けるようにする
右岸筏道の修正前と修正後