話のいどころ
それぞれの話
1.「品川道」へ入る脇道


狛江三叉路から狛江通りを駅に向かって歩くと、左側に路地があります。
路地の入口には「品川道」と書かれた大きな案内がありました。
その昔「品川道」は、武蔵の国の国府がある府中から品川まで、いろいろな人が歩いた古い道です。
そしてこの案内に沿って、狛江駅まで品川道を歩きました。
道は自然にゆったりと曲がっていました。
2.「二の橋」の大きなケアキ

二の橋の信号で、大田区から続いた筏道は世田谷通りに出会います。
二の橋バス停の横には直径80センチにもなるケヤキが、筏道を覆うように葉を広げていました。
資料によれば、当時のニの橋は木で作ってあったそうで、別の呼ばれ方は「板橋」だったそうです。
古い話と「板橋」の写真はつぎの資料にあります。
《引用文献》狛江市,狛江市民活動・生活情報誌『わっこ』第45号,“市街化で次々と姿消す橋",2022年6月27日,
https://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/45,66997,c,html/66997/45.pdf
3.一の橋信号の「石橋供養塔」

供養塔は一の橋信号の脇にありました。
帰りを急ぐ筏乗りたちも、ここで立ち止まったことでしょう。
道案内の石橋供養塔
永い間の風雨にさらされて、供養塔の文字を読むことはできませんが、資料によると、つぎのように刻まれてあるそうです。
東六郷江戸道
西登戸府中道
南家村道
北ほりの内高井戸道
《引用文献》狛江市,狛江市ホームぺージ,“狛江の古い道",2022年6月27日,
https://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/45,3351,349,2100,html
供養塔には東西南北の方角と道の名前が刻まれています。
この供養塔は、道案内の役目もしていたのです。
通いなれた筏乗りたちは別として、旅人はこの案内を頼ったことでしょう。
石橋供養塔の前を行く筏乗り
また、この道を行く筏乗りの姿を見ていたという資料がありましたので引用します。
《引用文について》
読みやすくするために抜き書きにし、改行を入れ、一部の文字に色をつけました。
狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。
2.は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。
狛江を東から北西へよぎる道である。
大正頃までは、多摩川を六郷まで筏(いかだ)を運んだ筏乗りの、家路を急ぐ蓑笠(みのがさ)姿がよく見られたという。
《引用文献》狛江市,狛江市ホームぺージ,狛江の古い道,2023年7月16日,
https://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/45,3351,349,2100,html
石橋供養塔の大きさと向き

ふつうは東向きのお地蔵さんが多いと聞きますが、「北向き地蔵」と呼ばれている地蔵があります。
この供養塔は西を向いていましたが、特別な意味があるのでしょうか。
4.駄倉橋の親柱

駄倉橋の読み方は、だくらはしです。
この通りは、昔の六郷用水でした。
六郷用水は、手前からイラスト画の奥に向かって流れていました。
そしてイラスト画の右下に、小さな石標と説明があります。
石標は駄倉橋の親柱でした。
橋は無くなっても、親柱だけはここに残したのです。
次はここにある説明の引用です。
駄倉橋跡
六郷用水に架かる駄倉橋がここにありました。
駄倉橋は、何度か架け替えられましたが、明治42年に造られた橋は、アーチ橋で、「めがね橋」と呼ばれ人々に親しまれました。
六郷用水は、慶長2年(1597)から16年かけて徳川家康の命により代官小泉次大夫吉次によって造られた灌漑用水路で、多摩川の五本松上流辺りから取り入れ大田区まで全長約23kmに及びます。
この辺りの六郷用水は、昭和40年に埋め立てられ、同時に駄倉橋も道路下に埋め立てられました。
5.駄倉塚古墳は古い筏道への入り口


ここは、狛江通りの狛江駅近く。
買い物をする人、通勤の人がいっぱいです。
そんな雰囲気とはまったく違う、ここは駄倉塚古墳という円墳です。
いくつかの資料を見ても、この古墳の詳しいことは、わからないようです。
ただ、狛江通りから古墳の脇道を入った通りは、古い品川道で、筏道でもありました。
筏乗りたちも、この古墳を横に見ながら帰りを急いだことでしょう。