多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

左岸の筏道で見つけた話

調布市

 

話のいどころ

 

それぞれの話

1.国領町一丁目の庚申塔

この庚申塔とマンションの間を、南の方角へ細い道が続いていました。

そしてこの細い道の先の国領5丁目あたりを明治時代の地図で見ると、「上ケ給村」と記されてありました。

明治時代、この先には小さな村があったようです。

そしてこの庚申塔さんは、村の入り口に立って、いろいろな災いから村を守ってきました。

筏乗りたちも、ここで手を合わせていたのでしょうか。
《引用文献》参照した地図です。『農研機構地図』の迅速地図(関東) 農研機構の地図については「資料の引用と出典」ページで詳細に記載。

 

2.「八町首無し」と言われた真っすぐな道

「八町首無し」とは、いささか物騒な言い方ですね。

それは、筏乗りたちが帰りを急いでこの道を歩いていたころの話です。

当時ここを歩いていると、前を行く人の首が見えなくなった、という話です。

こわくなる話ですが、それくらい真っすぐな道だった、ということなのですね。

そこで参考にした資料からその場所を探しましたところ、国領四丁目のバス停から国領駅までの道は、ほぼ真っすぐだということがわかりました。

ここに立って見ると、歩道は急ぎ足の人たちでいっぱいですけど、当時はひと気の少ない道でした。
《引用文献》大田区史編さん室編,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p21

 

3.鋸の「二見屋甚八碑」

二見屋甚八の大きな石の碑は、このお稲荷さんの鳥居の左側にありました。

二見屋甚八は、この地で鋸づくりを始めた最初の職人さんです。

資料には、この村に鋸の鍛冶屋さんが増えたことで、村が栄えたと記されています。
《引用文献》調布市編集委員会,1983,調布市編集委員会,『調布市史研究資料1 近世の上布田村』,p65

 

4.小島一里塚

一里塚の記念碑は、筏道に向いて立っていました。

この碑の横にある説明によると、この場所には大きなエノキがあって、ここを行く旅人の目印になったとあります。

大きなエノキの下でタバコをふかしながら、汗をふきふき、しばしの休憩をとっている筏乗りたちが見えるようですね。

いまこの場所に、大きなエノキはなくなりましたけど、エノキは隣の駐車場の名前になりました。

 

次に一里塚の説明文より引用します。

一里塚は街道の一里ごとに、その目じるしとして道の両側に築かれたものである。たいていは塚の上にエノキが植えられ、遠くからでも望見できるようにして旅行者の便がはかられた。

 

5.そば「中島屋」

筏乗りたちは六郷橋を早朝に出発して、歩きどおしでここまで来ました。

国領の鍋屋横丁を過ぎて少し来たところに、そば屋の「中島屋」があります。

筏乗りたちは、ここでそばを食べて帰りました。

「中島屋」がお店を始めた明治13年は、筏乗りたちが活躍していた時代でもあります。

 

つぎは引用からです。

さて筏乗りたちは、調布の町で一番古いそば屋の中島屋
大国魂神社前の梅重庵に立ち寄り、そばを食べて腹ごし
らえをすると、本宿のはずれで甲州街道を右手にそれ、谷
保天神の森を目印にしながら、寂しい「原の道」を立川へ
と向かった。

《引用文献》平野順治,2008,大田区郷土の会,『多摩川の筏流し』,p235

 

6.地名の由来「小島」

資料には次のようにありました。

小島分(こじまぶん)
上布田のおまけのようなものに、小島分があります。これは小島氏の持ち分という意味でしょう。つまり、小島という人の領地ということです。

《引用文献》調布市立図書館,1994,調布市立図書館,『子どものための調布市の歴史第2版』,p69

図書館にある古い地図を見ると、布田五宿の範囲のなかで、小島分村が一番小さいです。この村の範囲が個人のものだったという説明で理解できました。

 

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