多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

右岸の筏道で見つけた話

諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し

 

話のいどころ

 

それぞれの話

1.二子の亀屋旅館

目の前にある大きなマンションのこの場所に「二子の亀屋旅館」がありました。

筏乗りたちは帰り道の途中、この亀屋旅館で一休みしていったそうです。

つぎの内容は、この場所が「二子の亀屋旅館」だったことを示しています。

溝口境から235番地までを上宿、そこから263番地までを中宿、そこからかつての亀屋旅館、現在のガソリンスタンドまでを下宿と呼び、冠婚葬祭などの日常の基盤となっていました。

《引用文献》(編)日本地名研究所,1991,川崎市,『川崎の町名』,p180-181

 

そして、昭和51年の高津区明細地図を見ると、この場所に、二子給油所 マルベニ 九州石油 三幸油脂とありました。

「二子の亀屋旅館」は、ガソリンスタンドになったのです。

 

2.二子の渡し場入口

まっすぐ続くこの路地の突き当りの先は多摩川です。

ここは伊勢原の大山詣に行く人たちでにぎわった大山街道でした。

 

3.地名の由来「二子」

読み方・・ふたご

ここは江戸時代の二子村にあたりますが、二子村はもともと二子塚(現在の府中県道と二ケ領用水の間の二子塚児童公園)付近に開かれた村で、七百姓という七軒の農家によって開村されたといわれています。

《引用文献》(編)日本地名研究所,1991,川崎市,『川崎の町名』,p180

 

4.二子の渡し

読み方・・ふたごのわたし

東京側の二子の渡し場は、ここから見て鉄橋の反対側です。

つぎはこの碑にある説明です。

二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。
かつては大山詣りや江戸からの物見遊山客で賑わった。
タバコ、鮎、炭など相州の物産も渡った。
1925(大正14)年、二子橋開通で廃止。 

2010年3月
NPO法人 多摩川エコミュージアム
川崎市

 

5.地名の由来「久地」

読み方・・くじ

地名用語語源辞典による一般的な解説です。

くじ(久地)・・クジル(抉)の語幹で「えぐる」意味から、崩崖などの「崩壊地形」を示すか。

《引用文献》(編)楠原佑介 溝手理太郎,1983,東京堂出版,『地名用語語源辞典』,p170

この説明でいくと「えぐられた場所」や「崖」は、久地のどこの場所になるのでしょうか。

 

6.地名の由来「宇奈根

読み方・・うなね

「うなね」という地名について地名用語語源辞典を見ると、いくつかの説明があります。

そのなかに一つ気になる説明がありました。

それは、うな(宇奈)は田の神を祭った所、とありました。

この説明のような場所が近くにあるのでしょうか。

あるいは、多摩川の対岸にあったのでしょうか。
《引用文献》(編)楠原佑介 溝手理太郎,1983,東京堂出版,『地名用語語源辞典』,p65

また、多摩川の対岸の東京都にも、宇奈根という地名があります。

もともとは一つでしたが、多摩川の流れが変わって、二つに分かれました。

両岸に住んでいた昔の人は、近くにある「宇奈根の渡し」を使って農作業に行き来していました。

 

7.宇奈根の渡し

読み方・・うなねのわたし

案内は自転車やランニングの人が行き交う多摩川サイクルロードにあります。

つぎはここの案内からです。

洪水で分断され、右岸に飛び地(分村)が生まれました。
耕作に通う作場渡しのほか、溝の口と世田谷方面とを結ぶ交通にも役立った。

2008年3月
NPO法人 多摩川エコミュージアム
川崎市

 

8.地名の由来「堰」

読み方・・せき

むかしここに住んでいた人たちが、開墾のために多摩川に「堰」を作ったことで、この名前がついたそうです。
《引用文献》(編)川崎市市民局市民相談部広報課,1978,川崎市,『ふるさと一町一話(下)』,p40

 

9.堰の渡し

案内は土手の道路側にありました。なぜ道路に近いほうに建てたのでしょうか。

つぎは、ここの案内にある説明です。

堰と対岸の喜多見を結び、1907(明治40)年ころ始まった。
作場渡しのほか、近在の往来や東京への出荷、肥ひきに利用された。
1935(昭和10)年に廃止。

2008年3月
NPO法人 多摩川エコミュージアム
川崎市

 

10.地名の由来「宿河原」

読み方・・しゅくがわら

この辺りは、むかしの多摩川の河原を開墾したところなので「宿河原」と呼んだらしいです。
《引用文献》(編)川崎市市民局市民相談部広報課,1978,川崎市,『ふるさと一町一話(下)』,p39

 

11.登戸の渡し

読み方・・のぼりとのわたし

ここからは小田急線を行く電車がよく見えます。

つぎはここの案内からです。

江戸との往還にかかる重要な渡しであった。
江戸時代は宿河原あたりから、終わりの頃は小田急線鉄橋のやや上流から対岸の和泉に渡った。
1952(昭和27)年に廃止。

2008年3月
NPO法人 多摩川エコミュージアム
川崎市

 

12.登戸の石屋河岸

登戸に吉澤石材店という石屋さんがあります。

吉澤石材店さんは古くからの石屋さんですが、しばらく前に区画整理で移転しました。

明治時代、その吉澤石材店で使う石は、多摩川の河口から登戸まで川船で運んでいたのです。

石を乗せた船が付いた場所を「石屋河岸」と呼んでいました。

その「石屋河岸」を探してみた記事が下のリンク先です。

 

13.地名の由来「登戸」

読み方・・のぼりと

地名辞典には次のようにあります。

一般的には「古道が多摩丘陵への登りにかゝる所」ととる説が有力である

《引用文献》(編)日本地名研究所,2004,川崎市,『川崎地名辞典・下』,p97

 

14.登戸宿

登戸の津久井道を歩くと、こちらの案内が目に入ります。

案内には「登戸と柏屋」と書いてあります。

この場所には、柏屋という江戸時代から続いた料亭がありました。

柏屋で出される多摩川の魚料理はたいへんに好評で、お客さんでにぎわったそうです。

そして、柏屋は登戸の区画整理でこの近くに引っ越しました。

柏屋の跡地には大きなマンションが建って、この案内だけが残りました。

筏乗りたちが盛んに歩いたころの登戸宿は、たいへんにぎわっていたようです。

小杉宿や溝口宿と比べると、登戸宿は居酒屋、煮売り屋、飲食店などが多かったそうで、盛り場的な雰囲気の宿場だった*1、と資料にはあります。

 

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「右岸の筏道で見つけた話」のいろいろ

六郷橋 ~ 平間の渡し

平間の渡し ~ 諏訪の一本松

諏訪の一本松 ~ 登戸の渡し

登戸の渡し ~ 稲田堤

稲田堤 ~ 矢野口の渡し

 

*1:《引用文献》川崎市文化財団,1986,川崎稲田ライオンズクラブ,『かわさき 道と水の流れと々』,p75