多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

滝坂道を使って、江戸時代中期の「お浜降り」の道を推測する

 

はじめに

別の記事『古い品川用水に沿って探す「お浜降り」の道』では、参考にした品川区ホームページ「品川歴史散歩案内江戸時代の道 第2回」の解説を基に、品川用水に沿って大國魂神社から荏原神社までの順路を作成しました。

 

結果として、品川区の「広報誌しながわ」に記載の順路とは、大きな違いがあることがわかりました。

どちらも品川区が出した資料なのですが、なぜなのでしょうか。

 

そこで今回は、上記資料の解説文を参考にしないで、江戸時代中期に書かれた「六所宮神主日記」の内容を、私の解釈で地図に描くことにします。

記事のなかで、地図の出典、資料からの引用については、最後のページに示します。

尚、ここで作成する「お浜降り」の道は、あくまでも個人的な推測によるものです。

 

「お浜降り」(おはまおり)とは

ではここで、府中市大國魂神社で行われている「お浜降り」の行事について確認します。

「お浜降り」は別名「潮盛り」(しおもり)とも呼ばれている行事で、大国魂神社の神事のひとつです。

正しい説明を大國魂神社のホームページから引用します。

《引用文》
「潮盛り」とも呼ばれる神事であり、神職一行が品川海上に出て身を清めるとともに、清めの潮水を神社に持ち帰り、大祭期間中の朝夕潔斎時にはこの潮水を使用する。ここからくらやみ祭の一連の行事が始まる。

 

「お浜降り」の道を地図に描く方法

このページでは、「お浜降り」で歩く道筋のことを「お浜降り」の道、と呼ぶことにします。

「お浜降り」の道については、当日のことを書いた日記「六所宮神主日記」が出版物として図書館にあります。

そこで、その日記と明治時代の地図を使って「お浜降り」の道を探ることにします。

 

記事本文

「六所宮神主日記」の「お浜降り」を読む

まずは「六所宮神主日記」についてです。

「六所宮神主日記」は、大國魂神社の神主が書いた日記です。

その日記のなかで、江戸時代中期、安永8年(1779)4月25日の部分を使います。

内容は、大國魂神社の神主たちが当日の朝早く府中を出発して品川まで歩き、品川沖の潮水を汲み取って、その日の夕方に府中に帰ってきたというものです。

では日記の本文です。

《引用文》

今朝七ツ時之供揃六ツ時出宅、金子迄参り休何れも揃申候事、金子茶や弐十疋祝義酒出ス目黒へ参詣、茶や二て休

《引用文献》府中市郷土の森,1988,府中市教員委員会,『府中市郷土資料集10 六所宮神主日記』,p36

 

この日記を、私は次のように解釈しました。

今朝七つ時に集合、同行者が全員そろったので、六つ時に出発
金子村まで来て休憩、全員揃っている
金子村の茶屋でお酒が出たので、祝儀として代金を二十疋払って、目黒不動へお参りした
目黒不動の茶屋で休憩する

 

神主たちは滝坂道を使った

この日記で注目するところは、甲州街道にある金子村から目黒不動までの内容です。

日記を読むと、金子村の茶屋で休憩してから目黒不動までの間、途中の休憩場所や出来事などが無いのです。

これは、金子村から目黒不動までは、誰もが歩く決まった道があるので、説明を省いていると思われます。

 

例えば「東京から名古屋までクルマで行く」方法はと聞かれれば、当然、高速道路を使うと答えるでしょう。

この場合、高速道路はだれもが使う道なのです。

人に話す場合も「東京から名古屋までクルマで来ました」と言います。

「高速道路を使って来た」、と付け加えることはしません。

 

では、調布の金子から目黒不動まで歩く場合、だれもが使う道はなんでしょうか。

それは、渋谷と府中とを結んだ「滝坂道」または「瀧坂道」です。

滝坂道については、世田谷区のホームページにも記されています。

《引用文》

滝坂道は江戸時代に甲州街道が開設される以前、江戸と府中を結ぶ街道であった。

《引用文献》記事名・府中第 2 回地域風景資産 目録 (平成 19 年度)

 

滝坂道とは

ここで滝坂道についての資料を示します。

参考にした地図
その1
書名: 世田谷の古道に沿って
発行: 財団法人世田谷トラスト協会
発行日:平成4年11月

その2
書名: せたがやの瀧坂道
発行: 世田谷区教育委員会 世田谷区郷土資料館
発行日:昭和62年3月

 

参考にした引用文

次は滝坂道の全体について記されています。

瀧坂道は慶長7年(1602)に江戸幕府甲州道中(甲州街道の正式名)を開くまでの府中道で、特に中世吉良氏の居城であった世田谷城にとっては重要な道でした。この道は調布の瀧坂(東つつじヶ丘一丁目)で甲州道中と合わさり、江戸時代には「甲州道中出道」と呼ばれていました。瀧坂道の起点は、渋谷区にある道玄坂の頂上近くにある「道玄坂派出所」の先を右折したところにある狭い坂道で、道の起点から別名「青山道」とも呼ばれています。往時の面影が比較的残された道です

《引用文献》上記「世田谷の古道に沿って」、p6

 

次は滝坂の地名の由来について記されています。

雨が降るとこの坂道を滝のように水が流れたので滝坂の地名が生まれたのでしょう。

それにしても甲州道中とはこんな狭い道だったことがわかります。

《引用文献》上記「せたがやの瀧坂道」、見開きページ

 

現代版・滝坂道を描く

この地図は、先に示した「参考にした地図 その1 その2」を基に、現在の地図に滝坂道を描いたものです。

 

明治版・滝坂道を描く

これは、現在の地図に描いた滝坂道の道筋を、明治13〜19年に作成された「迅速測図」(じんそくそくず)に載せたものです。

「迅速測図」については最後のページの「出典引用一覧」に示します。

 

明治時代の地図に描いた滝坂道は、その道筋に実際の道があることを確認する

次の二つの地図は、現在使われている地図と明治時代の地図です。

青色線は作成した滝坂道の道筋です。

青色線の横に実際の道があることをわかってもらうために、青色線は地図上の道からは少し外して描いています。

二つの地図ともに、青色の線に沿って道が続いています。

 

100年経っても道筋は変わらない

次の地図を見てください。

まず(B)から(A)の時代です。

この時代、日本が開国してからの町の発展は驚くほどで、昭和に入ってからの都市開発は盛んでした。

それでもこの地図のように、同じ道筋は残っています。

激変したと言える140年の年代差があるにもかかわらず、(A)と(B)は同じ道筋です。

ということは、(B)の道筋はそのまま(C)の道筋だと考えることができるでしょう。

江戸時代中期の道筋は、明治時代の地図を使って推測するしかありません。

 

「明治版・滝坂道」を使って、江戸時代中期の「お浜降り」の道を描く

では、迅速測図を使って「お浜降り」の道を探ることにします。

開始場所は現在の東つつじヶ丘1丁目として、荏原神社までを四つに分けました。

尚、ここで作成する「お浜降り」の道は、あくまでも個人的な推測によるものです。

全体図

 

詳細図 現青葉台4丁目 ~ 荏原神社

滝坂道から荏原神社へ行くには、滝坂道の途中で、旧目黒川に沿って南方向へ行く必要があります。

そこで、地図にある道を見て次のように推測しました。

目黒不動までは旧目黒川に沿って歩くことになります。

この地図を見てわかることは、多摩川にあるような土手が無いことです。

これでは、大雨で川が氾濫することがあった場合、歩く道は変則的になったことでしょう。

 

付録

GoogleMapで見る

いままで述べた事柄をGoogleMapにしました。

青色の線が滝坂道赤色の線は「お浜降り」の道、それぞれの道筋です

どちらも明治時代の地図「迅速測図」を使って推測しました。

 

滝坂の傾斜具合を調べる

ところで「雨が降ると、この坂は滝のようになった」というのが、滝坂の名前の始まりだと引用文献にありました。

そこで、どれくらいの急坂なのかと、現地を歩いてみました。

次からはその記録です。

ここを出発地点とします。

ここは出発地点よりも少し低いです。

これは個人が作ったものです。

役所の文面ではなく、わかりやすくて丁寧な内容です。

坂の頂上です。

そこそこ急な坂道でした。

 

ところで、最初に示した断面図を見ると、とんでもなく急な坂になっていますが、横軸の縮尺に注意が必要です。

では傾斜(勾配)を計算して見ます。

  • 低い地点の標高は34m、高い地点は約44mとします。
  • その間の距離は約200mです。
  • そうすると、傾斜(勾配)は5%になりました。

参考資料によると、「雨が降ると、この坂は滝のようになった」とありましたが、坂の傾斜(勾配)が5%では滝のようにはならないですね。

ところが、現在の傾斜(勾配)に比べて、昔の滝坂はかなり急だったということです。

 

昔の滝坂の傾斜(勾配)については、内田平和堂さんの「七十年前の滝坂」の説明を引用します。

尚、読みやすくするために改行し、行を開けてあります。

その昔、滝坂は甲州街道の難所として知られ、近隣はもとより遠く甲府でもその名が通じたということです。


人力馬力に頼っていた時代にはこの急峻な坂道は多くの人たちが難儀したことでしょう。


今ではたびたびの改修工事により勾配はゆるやかになり、昔の面影は少なくなりましたが、旧道や裏道に昔の滝坂を知ることができます。

 

昔の道を探すのに決定打はない

このサイトは、多摩川の筏道を探す内容です。

筏流しの資料は写真でも残っていますが、筏道に関係する資料は少ないです。

 

筏道と比べると、滝坂道や青山道は「有名な道」です。

その「有名な道」の道筋を探すことは比較的簡単だろうと思いがちですが、簡単ではありませんでした。

筆者のような素人が四苦八苦するのはわかりますが、専門家でも古い道を探すことは、難しいようです。

 

次は、このページで紹介した資料、書籍『世田谷の古道』からの引用で、古い道を探すことの難しさを述べています。

まずは、青山道(滝坂道)のベージの最初の部分です。

古地図に「青山道」の記載がないこと、区画整理が行われたこと、道標が撤去されていることや、古老の意見も二手に分かれていることから、古道青山道の経路の確証は困難である。

《引用文献》書籍『世田谷の古道』、p33

つぎは “ あとがき ” です。

世田谷区文化財調査委員会

われわれは、この調査にあたって、いかに道についての資料が乏しく、調査が困難であるかを知らされた。調査方法としては、明治、大正の陸地測量図と現在図との比較、古老からの聞きとり、古文書よりの記録の引用等によったが、正確は期し難い。

《引用文献》書籍『世田谷の古道』、あとがき

この専門家の意見からすると、古い道を探すのに決定的な方法は無いということです。

 

出典引用一覧

六所宮神主日
府中市郷土の森,1988,府中市教員委員会,『府中市郷土資料集10 六所宮神主日記』,p36
大國魂神社 お浜降りの説明


地理院地図
国土地理院ウェブサイトの「地理院タイル」より記号等を追加して作成しました。
地理院地図 / GSI Maps|国土地理院


迅速測図
迅速測図とは、一言でいえば、明治時代に作成された地図です。
そしてこの地図の特徴は、測量をして作成したことです。
ここで使う迅速測図は「農研機構農業環境研究部門」内「歴史的農業環境閲覧システム」の関東迅速測図(1880年代)より記号等を追加して作成しました。

では「迅速測図」についての正しい説明を、歴史的農業景観閲覧システムFAQにある説明から引用します。

《引用文》
迅速測図とは、明治初期から中期にかけて行われた簡便な測量法とその成果の地図のことです。関東地方では明治13(1880)年から明治19(1886)年にかけて平野部から房総半島を対象に作成されました。

歴史的農業環境閲覧システム

 

迅速測図と地理院地図とをマッチングさせるために、宮崎県の「地理情報システム ひなたGIS」を使います。
迅速測図の上に順路を作図する場合も「ひなたGIS」を使います。


地理情報システム ひなたGIS
地図上に順路や記号等の追加には「地理情報システム ひなたGIS」を使用しました。
hinata GIS


滝坂道・青山道関係
書名: 世田谷の古道に沿って
発行: 財団法人世田谷トラスト協会
発行日:平成4年11月

書名: せたがやの瀧坂道
発行: 世田谷区教育委員会 世田谷区郷土資料館
発行日:昭和62年3月

書名: 世田谷の古道
発行: 世田谷区教育委員会
発行日:昭和50年3月

 

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