多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

明治20年・筏乗りの人数と出身の村

 

明治20年の筏乗りの人数

江戸時代から明治時代を経て大正時代まで、多摩川の筏流しはたいへん盛んでした。

では、その筏に乗っていた筏乗りは、何人いたのでしょうか。

当時、筏乗りたちが仕事をするのには名前を登録する必要がありましたので、資料が残っています。

つぎに示す表は、明治20年の筏乗りの人数です。

 

明治時代の地図で筏乗りの出身村を探す

上の(表1)は明治20年の統計です。

当時、奥多摩に鉄道はありませんでした。

そのため、鉄道が使えるまで筏乗りは六郷から奥多摩まで歩いて帰りました。

そこで、明治20年の196人の筏乗りたちが、歩いて帰った村の場所を探してみることにします。

つぎは(表1)にある村の名前を、古い地図で確認できた一例です。

このようにして全部の村を探します。

 

地形がわかる立体地図で村の場所を見る

つぎは(表1)にある全部の村の場所の立体地図です。

村の位置は、明治時代の地図から推定しました。

立体地図にすることで、山に囲まれた奥多摩の雰囲気がよくわかります。

  • 青い線は、明治時代の地図から作成した筏道です。
  • 赤い丸印は(表1)の村の場所です。

この地図からわかることは、筏乗りの出身村は、現在のJR青梅線河辺駅付近から鳩ノ巣駅近くまでで、たいへんに広範囲に分布しています。

 

村の集まりを3つに分ける

筏乗りたちの出身村の範囲が広いため、全体範囲を3つに分けます。

 

分割3-1

分割3-1は、多摩川の流れから見ると下手(しもて)になります。

奥多摩の山々には、まだ囲まれていません。

画面の右側に平地が広がっていることがよくわかります。

 

分割3-2

この立体図を見ると、多摩川の左岸右岸の山が迫ってきていますが、二俣尾や柚木には、まだ平地が広がっています。

 

分割3-3

この立体図では、筏道は両側の山の間を縫っているように見えます。

山の連なりから、奥多摩の雰囲気が伝わってきます。

そして(表1)の明治20年の筏乗りのなかで、いちばん遠かった筏乗りの村は、棚沢村でした。

(表1)によれば、明治20年の棚沢には5人の筏乗りがいました。

5人は棚沢の家から出発して、材木を組んで筏に仕上げた後、多摩川の六郷まで数日かけて届けました。

その筏流しができた時期は秋から翌年の春までです。

鉄道が使えるまで、棚沢の5人の筏乗りは六郷から歩いて帰って来たのです。

 

 一覧ページへもどる 

筏流しと筏道に関連するはなし