多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

野毛にあった「炭河岸」を探す 世田谷区野毛

 

炭を扱う場所だから「炭河岸」

ときどき聞く言葉に、何々「河岸」(がし)があります。

いちばん有名なのは「魚河岸」でしょう。

ところで、江戸時代から明治にかけて、世田谷区にも「河岸」と呼ばれた場所がありました。

そこは多摩川の川岸で、筏から炭を荷揚げしたところなので、名前を「炭河岸」(すみがし)といいます。

「炭河岸」は多摩川の筏道の順路のすぐ近くにあります。

そこで「炭河岸」の場所を探して、筏道との関係を探ってみることにします。

 

野毛にあった「炭河岸」の昔ばなし

ところで、図書館の資料には、地元の古老たちからの聞き書きの資料があります。

実際に自分で経験したり見聞きしたものは重要な資料ですが、ひとつ欠点があります。

それは、その多くの話には明確な時代が示されていない、ということです。

そこで、資料にあった二つの話の内容を一つにして検討することにします。

 

一つ目の話

次の引用文は世田谷区の図書館の資料からで、世田谷区に在住していた男性の話をまとめたものです。

話のなかに「野毛の岸」と「炭を荷上げした」という言葉が出てきます。

昔は多摩川上流から切り出される建築用材は、丸太を組んで筏によって下流消費地へ運ばれたようです。そして、この筏の上に、上流方面で焼いた炭を積んできたようです。

筏を操る筏師も、野毛の「岸」の静かなゆったりとした流れに出て、一息つき、上流からの激しい労働の疲れをとったことでしょう。と同時に、ここで筏に積んできた炭を荷上げしたのです。

《引用文献》世田谷区総務部文化課編集,1991,世田谷区総務部文化課,『ふるさと世田谷を語る 野毛・上野毛』,p136-137

 

二つ目の話

次は世田谷区の郷土資料館の資料からです。

このなかに「谷沢川が多摩川に注ぐ辺り」と「炭河岸」という言葉が出てきます。

多摩川上流や秋川流域で焼き出された炭は、筏の上荷(うわに)として川下げされ、江戸や多摩川流域の村々ヘもたらされた。世田谷区内にも、筏乗りたちによって運ばれてくる炭を買い受け、炭商売を行っていた家が複数存在した。

等々力村では、炭は谷沢川が多摩川に注ぐ辺り(野毛と玉堤境)で荷揚げされ、かつて「炭河岸」(すみがし)と呼ばれるほど盛んに取引されていた。

《引用文献》世田谷区郷土資料館,2021,世田谷区郷土資料館,『世田谷区立郷土資料館 資料館だより』,筏の上荷,No74 2021.10,p5 

 

話のなかのキーワード

上の二つの話のなかから、つぎの言葉がキーワードになります。

野毛の岸」と「谷沢川が多摩川に注ぐ辺り

この言葉から、話を紐解きます。

 

二つの話に合う昔の野毛の絵地図を探して、地図中に注目点を付ける

いままでの二つの話に合う絵地図を見ることにします。

それは図書館にある資料で、手書きで描かれた絵地図です。

この絵地図のなかで、これからの話の注目点になるものを大きな文字で示しました。

 

絵地図に設定した注目点を、別の迅速地図に載せる

次の地図は「迅速測図」または「迅速地図」と呼ばれているものです。

地図の作成は1880年代、明治13~22年ころで、実際に測量したものです。

この地図に絵地図の注目点を載せてみました。

多摩川左岸の筏道の順路も赤い線で示しました。

 

迅速地図で「谷沢川が多摩川に注ぐ」場所を見る

次は、この地図の谷沢川が多摩川に注ぐあたりと、その周りを見ることにします。

 

「谷沢川が多摩川に注ぐ」場所の脇にある川の流れが穏やかになる場所が「炭河岸」

上の地図は、(a)の場所とその周辺を拡大したものです。

この地図から次のことがわかります。

  • (a)の場所は川岸が陸側に入り込んでいます。
  • このような場所は川の流れが緩やかになっていて、上流から流れてきた筏を留めるには最適です。

 

  • (a)の場所には、川岸から陸側へ向かって広い道ができています。
  • 筏から降ろした炭俵を、荷車か牛車で運び出すにも便利です。

 

  • 谷沢川が多摩川に注ぐ辺りは、流れの入り江ができていません。
  • これでは筏を留めておくことはできないです。
  • また、この場所には広い道もないので、炭俵を運び出すことが困難です。

 

  • 「二つ目の話」で、谷沢川が多摩川に注ぐ辺りを「炭河岸」と呼ばれていた、ということから、その近くにある(a)の場所も「炭河岸」と呼ばれていた範囲に入ると思われます。

以上の点から、この地図の1880年代、明治13~22年代では「野毛の炭河岸」は、上記の(a)であったと推測できます

 

野毛の「炭河岸」跡を、現在の地図で見る

上の地図は、明治期の地図で示した事柄を現在の地図に載せたものです。

青色の濃い部分は、流れが緩やかなところです。

 

野毛の「炭河岸」跡を、現地で見る

上のイラストの画面左側に立っているのは「野毛の渡し」の石標です。

石標の前、イラスト画の右側は道路で、道路の先は多摩川です。

この石標から画面右の道路を越えて100mほど多摩川方向へ入ったところが「炭河岸」でした。

また、石標があるように、野毛の「岸河岸」は野毛の渡し場でもありました。

渡し舟も流れが緩やかなところを選んでいたのです。

この場所に立ってみると、ここからは「炭河岸」跡の場所を直接見ることはできません。

そしてここは筏道でした。

今は人通りも少ないですが、明治の初めから中ごろは、この筏道にも炭俵が積まれて、それを運ぶ人たちや荷車であふれていたと思います。

 

炭を運ぶ様子がわかる資料がありましたので、引用します。

炭の商いは川岸に積み上げられた炭俵を急な坂道を担いで自分の家まで運び上げるので大変な仕事であり、家のつくりも表口は高さが七尺(ふつうの家は六尺ぐらい)もあってこごまないでも中に入れるようになっていました。
家の東側には馬を飼う下屋が続いていて、ここから馬の背に炭俵を満載して目黒から新宿方面へ運んだということです。

世田谷区総務部文化課編集,1991,世田谷区総務部文化課,『ふるさと世田谷を語る 野毛・上野毛』,p33

 

六郷橋から歩いてきた筏乗りたちは、ここで炭を降ろす様子を見ていたことでしょう。

 

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