多摩川の筏道

筏乗りたちが歩いた道を散策するための案内マップ

筏乗りが六郷から奥多摩まで歩いた日数を探る

 

はじめに

このサイトでは、多摩川の筏乗りが歩いて帰った「筏道」について、いろいろ探っています。

六郷からの筏道を歩いて、筏乗りの家は奥多摩にありました。

では、鉄道が開通していない時代、奥多摩まで何日で帰ったのでしょうか。

資料を基に、帰り道の日数を探ることにします。

 

資料のまとめ

資料には急いで帰った話がありますが、その内容は省きます。

では、まとめです。

  • 六郷で筏を渡した後、その日は六郷の筏宿か川崎の旅籠に泊まった。
  • 翌日、六郷からの帰り道の途中、五宿(調布)か府中で一泊した。

つぎは参考にした資料です。

資料1

筏乗りたちは、六郷の筏宿に荷を引き渡すと、その晩は六郷か川崎に泊まり、翌朝早く起きて帰路につきました。多摩川沿いにさかのぼって、六郷から沢井まで約十六里(六十四キロ)、鉄道のない時代には途中、五宿か府中で一泊する二日がかりの行程でした。もっとも急ぎのときは、午前三時ごろ出発し、ぶっとおしに歩いて、青梅の町で夕飯をとり、夜の十時ごろ、家に着くこともあったということで、むかしの人の健脚ぶりがしのばれます。

《引用文献》平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p16

資料2

筏流しは多摩川の河口・六郷で筏を下し、回船問屋に引き渡して仕事が完了となるが、帰りは多摩川沿いを陸路、歩いて帰らなければならなかった。

六郷で荷を下ろすと、その晩は左岸の六郷の筏宿か、右岸の川崎の旅籠に宿泊し、翌朝早く、多摩川沿いのできるだけ近道を奥多摩まで歩いて帰路に着いた。鉄道が開通するまでは途中布田五宿や府中に一泊することも多かった。急ぐときは徒歩で1日で青梅まで歩いたという。

《引用文献》角田益信,2000,稲田郷土史会,『あゆたか』,多摩川の筏流し聞書,第61号,p26

 

奥多摩までの筏道を地図で見る

ここからは地図を使います。

六郷から奥多摩までは76km

つぎの地図は、六郷から奥多摩までの道を立体地図にしたものです。

距離は次のようです。

  • 六郷・川崎から左岸33km・・このサイトで使う筏道の距離
  • 府中から奥多摩まで43km・・明治時代の地図を使って、大国魂神社から現在の鳩ノ巣駅までの距離

 

筏乗りの人数と出身村

では、奥多摩地区の筏乗りは何人だったのでしょうか。

つぎは、明治20年の筏乗りの出身村と人数です。

 

出身村の場所を細かく見る

つぎは、それぞれの出身村の場所を立体地図で示します。

 

ここからは、全体を三つに分けて細かく見ることにします。

 

 

筏流しは秋から翌年の春までが最盛期でした。

その冬の期間、奥多摩は雪の日が多かったと思います。

鉄道が無い時代、筏乗りはこの76kmの雪道を歩いたのです。

 

〈こぼれ話〉棹は担いで歩かなかった

資料の中には「筏乗りが棹を担いで歩いていた」と書いてある資料もありますが、実際はそうではなかったようです。

つぎはその話です。

資料

筏乗りが棹をかついで帰って行く姿を見たというような記述をよく目にしますが、わたしが話を聞いた三人の古老は、口をそろえてそれを否定しています。筏には棹とテコが一枚に一本ずつ元締から支給されます。前にも述べたように、筏乗りは一人で三枚乗り下げるので、棹が三本、テコが三本となりますが、六郷の筏宿に引き渡すときは、それぞれ一本ずつでいいという仕来りになっていたので、その他は員数外となり、筏乗りはこれを筏宿に買ってもらってホマチ(帆待ち)にしました。それゆえに、二尋半もある棹をかついで長い道中をするという不自然なことはあり得なかったのです。

《引用文献》平野順治,1979,東京都大田区,『史誌 第12号』,p16

 

まとめ

では、資料にある棹の長さ「二尋半」(ふたひろはん)とは、どのくらいなのでしょうか。

まず、一尋(ひとひろ)の長さは、大人が両手を広げた長さです。

なので、約150〜180センチメートルくらいです。

ということは、二尋半の長さは、375〜450センチメートルになります。

筏流しに使う棹は、これだけ大きかったのです。

 

そして、この棹は岩に当てて筏の向きを変えるためのものなので、かなり頑丈でなければいけません。

棹は丸い木材の「丸太」なのです。

推測ですが、直径は5センチ以上はあるでしょう。

体力がある筏乗りだとしても、これほど長いものを持って、76kmを歩くことはできません。

「棹を担いで歩いていた」というのは、棹ではなく別のものを担いでいたと思います。

 

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